2004/04/01

独立秘話

ボクが某シンクタンクからフリーランスとして独立してから現在までの、
経験してきた人並みな苦労話です(苦笑)ホント、人並みですけど。

 こんな内容を書こうと思い立った理由としては、フリーランスって、想像していたより自由だし、想像していたより意外にも苦労した、ということをどこかでまとめて書いてみたいという衝動に駆られたし、また、この話がこれからフリーランスを志す方のために、「へぇ〜」そんなヤツもいるのか、という一助になれば、という思いから。

 ※本気で「フリーランサーってなんなの?」って思っている方は、パートナーシップサイトであるわきさんのブログ<「フリー*プランナーというお仕事について」>というところがお勧めでベストです。


 ではでは。。



石山城 独立の時代〜ぴあ総研を退社して〜


 今思えば「ぴあ総合研究所」(※現在はありません)にボクがどうして入れたのか?自分ではその経緯は不思議なモノであった。


 それはーーー募集告知もしていない会社へいきなり履歴書と経歴書を送付したあげく、間髪入れず「履歴書を送らせていただいた者ですが、だまされたと思って1度お会いしてください」という強引なまでの面接を取りつけ・・・・気がついたら、結果的にボクは翌週から働くこととなっていたーーーという、今思うとなんとも強引なまでの若気の至りの経緯である。

 まぁ、後から事情を聞けば、ちょうど結婚退社で辞める方がいて、募集告知を出そうかどうしようかと迷っているときにボクの怪しい手紙が来て、なんだかおもしろそうだから会うだけ会ってみれば、ということだったらしい。

 どうやら人生というのはタイミングらしい。

 
 そんな経緯であったにも関わらず、 ボクはバブル絶好調の時期ということもあり、「なぜディズニーランドばかりが流行って他のエンターテインメント施設は流行らないのか?」という、当時の看板プロジェクトのひとつである「あそびの研究」や、今の横浜桜木町開発に関係する「みなとみらい地域の文化構想施策」等々、多数の貴重なプロジェクトの経験をさせていただいた。



 それから、ボクはそのぴあ総研がいろんな事情があった狭間に揺れるのをキッカケに退社した。 その当時、ちょうどバブルも弾けたばかり、という厳しい社会だったのは承知していた。

 が、しかし、 いくつかの会社からも声がかかっていたのを鵜呑みにし、辞める時はなんのためらいもなかったのを覚えている。しかし現実は厳しいというのは言わずもがな。突然不景気に襲われ始めたボクが頼るはずの会社たちは皆、いそいそとボクの前から姿を消していった。

 そして紆余曲折があり「もう独立してフリーランスになろう」と決心するも、なかなか営業がおぼつかない。それでもいくつかの広告代理店と直接付き合いがあったボクは、知り合いという知り合いを訪ねて回った。1日に銀座と築地を何度も何度も往復した。ちょうど季節は桜が満開であるにも関わらず、ボクの人生の花はすべて散ってしまったような気がするほど全滅だった。



 生活が厳しくなってきた。



 でも新規の話はいっこうになかった。



 ボクは、心機一転し昼間に知人に訪問するのを辞めた。

 昼は通常のアポで皆忙しいからだ。そんな時に羽振りの悪い奴がアポイント無しでおじゃまするのも、今考えれば実に辛気くさい営業そのものである。そこで、ここはいっそ「夜、仕事が終わってからたまには遊んでください」というアプローチに路線変更した。我ながらナイスなアイデアだと思った。



 しかし、これは本当の理由ではなかった。



 本当は生活が苦しかったため、昼は登録制の日払いの可能な肉体労働をした。

 それらの仕事は、1日3件の引っ越しや、駐車場整理、工場内作業などだった。。 数年ぬるま湯の生活が続いたあとの肉体労働は本当に辛かった。

 裁判所の「行強制執行の補助業務」というのもやった。それは支払いが滞った人の家に裁判所の大義名分のもと押し掛け、もぬけの空にしてしまうという、なんともやるせない仕事だった。「鬼〜、血も無いのか?」と強制執行をされる家人から何度も言われた。「いずれこのままではボクがやられる」と本気で思った。


 しかし、本当に辛かったのは肉体労働の作業そのものではなかった。



 日が暮れて「お疲れさま〜」と1日の作業が終了すると、ボクは公園の水飲み場で汗を拭いスーツに着替えた。

 それは、 決してこれから会う知人達にバレないよう公園でも構わず裸になって汗くささを取る為だ。今思えば当時ボクができうる限りの最高のプライドを守るための行為だった。

 でも、手や体をどんなにキレイに洗ってもツメの中に入り込んだ汚れは落ちなかった。そして何事もなかったように広告代理店や制作会社の知人達と会っても、指先だけは絶対に見られまいと、いつも手を握っていた・・・・。そんな自分がとても惨めで辛かった。





 そんな生活がしばらく続き、「今はこんなプロジェクトをしてます」と他人に堂々と話せるまでに数年かかった。

石山城

2004/01/01

プロフィール パート2(読み物風味)

【石山城物語】
 〜石山城がこの職業におちつくようになるまで〜


福島県福島市出身。

福島大学経済学部在学中に家業の一部門であったカフェバーを任される。そこで、集客目的と自己満足のため、そして、周囲のおだてにノせられ、若者対象の異業種交流会(Fuzzy Club)を設立する。


そこで数々のイベントを企画・運営するようになり仕掛け屋として目覚める。

時は丁度バブル全盛期。


当時、今までは社会の黒子的存在だった広告代理店や○○総合研究所、シンクタンクという職業が表舞台で脚光を浴び始める。なんとかプロデューサーっていうのもかなり流行った。

そこで、当時ボクはふとこう思ったんです。


「もしかすると、世の中は、ナニか、とある方程式で動いているのではないか?」と。


……そこで、むしょうにシンクタンクという仕事に興味を持つようになった。


まぁ、そんなこんなで家業であるお店も軌道に乗ったところで上京を決意し一念発起。 資金づくりで佐○急便で約半年間3トン車に乗り、1990年秋なんとか上京する。


で、翌年春まで、右も左も分からない上京生活の中、バイトに明け暮れるも、
募集告知もしてないにもかかわらず、勝手に履歴書と経歴書を送りつけ、なぜか…

(株)ぴあ総合研究所に拾われる。


そこで、まだバブル景気の最終局面であったことから「遊びの研究」「みなとみらい21文化施設方策」等、数々の看板プロジェクトに携わらせていただきプラニングの基礎を学ばせていただく。今思えばとてもバブリーなプロジェクトだったと思う。



その後、独立し基本的にはフリーのプランナーとなる。


ここ数年は、「Digital(BSデジタル、Web)」「Age(高齢者問題)」「Eco(環境問題)」を中心に、広告代理店やテレビ局などで、番組の企画制作や販売促進の企画などに携わる。主な代表作は「Products」参照。


また、99年から若者文化を独自の斬り口で分析した著書「Bible X〜裏原宿完全ガイド〜」(夏目書房)を発表し、若者文化に関わる作家活動も始める。


現 在までの代表的なプロジェクトとして、インターネット博覧会(インパク)パビリオンの数社の企画ディレクション、BSデジタル放送の番組の企画と制作、ま た、不定期ながらメールマガジンのコラム執筆等々…ありますが、最近は広告代理店を中心とした顧問やコンサルティングという立場で関わることが多い。




 …と、今まで、結果的に、話題性のある「おもしろおかしいもの」
 というプロジェクトが多いため、周囲の関係者から…

「テリトリーを決めない
  節操のないプランナー」

  と言われ始め、面白いのであえて否定せず21世紀を迎える。



 まぁ、続きはどうなることやら(笑)

石山城ブログ / ISHIYAMA Joe's Official Blog