経験してきた人並みな苦労話です(苦笑)ホント、人並みですけど。
こんな内容を書こうと思い立った理由としては、フリーランスって、想像していたより自由だし、想像していたより意外にも苦労した、ということをどこかでまとめて書いてみたいという衝動に駆られたし、また、この話がこれからフリーランスを志す方のために、「へぇ〜」そんなヤツもいるのか、という一助になれば、という思いから。
※本気で「フリーランサーってなんなの?」って思っている方は、パートナーシップサイトであるわきさんのブログ<「フリー*プランナーというお仕事について」>というところがお勧めでベストです。
ではでは。。
石山城 独立の時代〜ぴあ総研を退社して〜
今思えば「ぴあ総合研究所」(※現在はありません)にボクがどうして入れたのか?自分ではその経緯は不思議なモノであった。
それはーーー募集告知もしていない会社へいきなり履歴書と経歴書を送付したあげく、間髪入れず「履歴書を送らせていただいた者ですが、だまされたと思って1度お会いしてください」という強引なまでの面接を取りつけ・・・・気がついたら、結果的にボクは翌週から働くこととなっていたーーーという、今思うとなんとも強引なまでの若気の至りの経緯である。
まぁ、後から事情を聞けば、ちょうど結婚退社で辞める方がいて、募集告知を出そうかどうしようかと迷っているときにボクの怪しい手紙が来て、なんだかおもしろそうだから会うだけ会ってみれば、ということだったらしい。
どうやら人生というのはタイミングらしい。
そんな経緯であったにも関わらず、 ボクはバブル絶好調の時期ということもあり、「なぜディズニーランドばかりが流行って他のエンターテインメント施設は流行らないのか?」という、当時の看板プロジェクトのひとつである「あそびの研究」や、今の横浜桜木町開発に関係する「みなとみらい地域の文化構想施策」等々、多数の貴重なプロジェクトの経験をさせていただいた。
それから、ボクはそのぴあ総研がいろんな事情があった狭間に揺れるのをキッカケに退社した。 その当時、ちょうどバブルも弾けたばかり、という厳しい社会だったのは承知していた。
が、しかし、 いくつかの会社からも声がかかっていたのを鵜呑みにし、辞める時はなんのためらいもなかったのを覚えている。しかし現実は厳しいというのは言わずもがな。突然不景気に襲われ始めたボクが頼るはずの会社たちは皆、いそいそとボクの前から姿を消していった。
そして紆余曲折があり「もう独立してフリーランスになろう」と決心するも、なかなか営業がおぼつかない。それでもいくつかの広告代理店と直接付き合いがあったボクは、知り合いという知り合いを訪ねて回った。1日に銀座と築地を何度も何度も往復した。ちょうど季節は桜が満開であるにも関わらず、ボクの人生の花はすべて散ってしまったような気がするほど全滅だった。
生活が厳しくなってきた。
でも新規の話はいっこうになかった。
ボクは、心機一転し昼間に知人に訪問するのを辞めた。
昼は通常のアポで皆忙しいからだ。そんな時に羽振りの悪い奴がアポイント無しでおじゃまするのも、今考えれば実に辛気くさい営業そのものである。そこで、ここはいっそ「夜、仕事が終わってからたまには遊んでください」というアプローチに路線変更した。我ながらナイスなアイデアだと思った。
しかし、これは本当の理由ではなかった。
本当は生活が苦しかったため、昼は登録制の日払いの可能な肉体労働をした。
それらの仕事は、1日3件の引っ越しや、駐車場整理、工場内作業などだった。。 数年ぬるま湯の生活が続いたあとの肉体労働は本当に辛かった。
裁判所の「行強制執行の補助業務」というのもやった。それは支払いが滞った人の家に裁判所の大義名分のもと押し掛け、もぬけの空にしてしまうという、なんともやるせない仕事だった。「鬼〜、血も無いのか?」と強制執行をされる家人から何度も言われた。「いずれこのままではボクがやられる」と本気で思った。
しかし、本当に辛かったのは肉体労働の作業そのものではなかった。
日が暮れて「お疲れさま〜」と1日の作業が終了すると、ボクは公園の水飲み場で汗を拭いスーツに着替えた。
それは、 決してこれから会う知人達にバレないよう公園でも構わず裸になって汗くささを取る為だ。今思えば当時ボクができうる限りの最高のプライドを守るための行為だった。
でも、手や体をどんなにキレイに洗ってもツメの中に入り込んだ汚れは落ちなかった。そして何事もなかったように広告代理店や制作会社の知人達と会っても、指先だけは絶対に見られまいと、いつも手を握っていた・・・・。そんな自分がとても惨めで辛かった。
そんな生活がしばらく続き、「今はこんなプロジェクトをしてます」と他人に堂々と話せるまでに数年かかった。
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